
「歌うときは腹式呼吸でお腹を意識して!」「お腹からしっかり息を支えて!」——ボイストレーニングや合唱の現場で、誰もが一度は耳にする定番のアドバイスです。「お腹をふくらませて息を吸い、下腹にグッと力を込めて吐く。そうすれば声も音程もブレずに安定する」と教わった方も多いのではないでしょうか。
ところが、実際に歌ってみるとどうでしょうか。「言われた通りにお腹を一生懸命意識しているのに、サビで声を張った瞬間に音程が高く上ずってしまう」「ロングトーンの終わり際で息が苦しくなると、ピッチがズルズルとぶら下がってしまう」……そんな思い通りにいかない経験はないでしょうか。
「自分はお腹の使い方が下手なのだろうか」「もっと腹筋に力を入れて押し出すべきなのだろうか」と悩んでしまいがちですが、実は音程が不安定になる原因は、お腹の筋力不足ではありません。声の高さには、お腹の動きだけでなく、喉の中にある声帯の筋肉との「チームワーク」が深く関わっているからです。
最初に、この記事の結論「お腹をふくらませるフォーム」そのものが音程を安定させているわけではありません。 音程に直接影響を与えるのは、お腹の外見の形ではなく、息が声帯の真下に押し上げられたときに生まれる空気の圧力——「声門下圧(せいもんかあつ)」です。 声帯には、「息の圧力が変わるだけで、喉の筋肉を動かさなくても勝手に音程がブレてしまう」という物理的な性質があります。プロの歌手が音程をピタッと保てるのは、腹式呼吸という特定のポーズをとっているからではなく、息の圧力をコントロールしつつ、喉の筋肉(CTなど)と息をリアルタイムに協調させているからなのです。
この記事では、3D解剖図、コンピューターによる声帯シミュレーションの計算データ、実際の聴き比べ音源、そしてプロ歌手を対象にした医学・生理学研究を手がかりに、「呼吸とお腹、そして音程の本当の関係」をステップを追って紐解いていきます。
まず試してみよう:同じ高さのまま「息の強さ(声の強弱)」を変えてみる
詳しい仕組みに入る前に、まずはご自身の喉で「息の強さと音程の関係」を体感してみましょう。今声を出せる環境にある方は、ぜひ一緒に試してみてください。
普段の会話くらいの、無理なく出せる「中音域」の音を1つ選びます(男性なら真ん中のド〜レ、女性なら高めのラ〜シ付近など、苦しくない高さならどこでも構いません)。
その音の高さを頭の中に思い浮かべたまま、一息で「あーー」とまっすぐ伸ばし、途中で音程を変えずに「息をグッと強めて少し大きな声にする → また元のやさしい声に戻す」という強弱をつけてみてください。
- 声を強く張った瞬間に、ピッチまで一緒にツンと高く上ずってしまう(シャープする)
- 声を弱めて小さくした途端に、フッと音が垂れ下がってしまう(フラットする)
- 音量を保とうとお腹に力を込めた瞬間、喉まで力んで声が固くなってしまう
いかがでしょうか。一定の強さで伸ばすだけなら綺麗に音程を保てる人でも、息の強さや音量を変えた途端にピッチまでつられて動いてしまうことは珍しくありません。これこそがまさに、「息の押し出す力(圧力)の変化が、声帯の振動数を勝手に動かしてしまう」という現象の正体です。なぜこんなことが起きるのか、喉とお腹の仕組みから順番に覗いていきましょう。
1. 「腹式呼吸」の何が必要なのかを整理する
「歌には腹式呼吸が大切」と言われますが、実はこの言葉には少なくとも3つの異なる意味が混ざり合って使われています。
- 吸うときにお腹が外へポコッと膨らむこと(外見の形)
- 吐くときにお腹の筋肉を使って息を押し出すこと(腹筋の力)
- 歌っている間中、フレーズに合わせて息の流れや圧力をきめ細かく調整すること(呼吸全体のコントロール)
これらをひとまとめにして「お腹を膨らませて力を込めれば、自然と音程が安定するはずだ!」と信じてしまうと、お腹をガチガチに力ませて喉を締め付ける原因になってしまいます。

「息をお腹に入れる」という表現から、胃や腸があるお腹のスペースに空気が溜まるように錯覚しがちですが、当然ながら空気が出入りするのは肺です。肺自体には自ら膨らんだり縮んだりする筋肉がないため、周囲の胸郭(肋骨まわり)と横隔膜が動くことで空気を吸い込みます。
息を吸うときには、胸とお腹の境界にあるドーム状の筋肉「横隔膜」がピストンのように下方へと下がり、同時に肋骨が外側へ広がって肺を膨らませます。このとき、下に押し下げられた内臓の逃げ場としてお腹が前へポコッと押し出されます。つまり、お腹の膨らみは横隔膜が下がった結果として生じる「外見のサイン」に過ぎません。お腹の形だけを意識して膨らませたり凹ませたりしても、それだけで声帯に届く息の圧力やスピードが自動的に整うわけではないのです。
実際のプロ歌手を対象にした呼吸生理学の研究でも、「胸を一切動かさずにお腹だけで歌っている」人などおらず、曲や音域に合わせて胸郭とお腹を巧みに連動させていることが分かっています文献2文献3。大切なのは「胸か腹か」という外見のポーズ争いではなく、その奥にある声帯に送り届けられる息の圧力と、喉の筋肉の調整です。
2. 息の「量」「流れ」「圧力」は、それぞれ違う
ボイストレーニングの解説ではよく「息をたくさん使って!」「息をもっと強く!」といった表現が使われます。感覚的なイメージとしては便利ですが、物理的にはまったく異なる3つの要素が混ざり合っています。ここをきちんと区別すると、呼吸と音程のつながりが一気にクリアに見えてきます。
肺気量・流量・声門下圧の違い
| 要素 | 何を表す? | 身近な例え | 単位 |
|---|---|---|---|
| 肺気量 | 肺の中にどれだけ空気が入っているか | ガソリンタンクの残量 | L(リットル) |
| 流量 U | 1秒間に声帯の間を通り抜ける空気の体積 | 蛇口から流れる水の量 | L/s(リットル毎秒) |
| 声門下圧 Psub | 声帯のすぐ下に溜まっている空気の押し出す圧力 | 風船の内側から押してくる空気のパンパンさ | Pa、cmH₂O |

ゴム風船を思い浮かべてみてください。風船をパンパンに膨らませて口を指で固くつまんでいるとき、風船の内側には強い空気の圧力(声門下圧)がかかっています。しかし、出口が完全に塞がれているため、空気の流れ(流量)はゼロです。指の力を少し緩めると、プシューと勢いよく空気が噴き出します。
発声中の喉でも同じことが起きています。声帯は1秒間に何百回という超高速で開閉を繰り返しており、その真下で待ち構えている空気の押し出しパワーこそが「声門下圧(せいもんかあつ)」です。「お腹にどれだけ力を入れたか」「どれだけ息を吐き出したか」と、実際に声帯にかかっている圧力はイコールではありません。
吸った後も、ずっと同じ力でお腹を押し続ければいいわけではない
「安定した声を出すために、吸った後もお腹に一定の力を入れ続けよう」として、途中で息苦しくなったり声が詰まったりしたことはないでしょうか。
実は肺や胸郭には、ゴム風船と同じように「引き伸ばされると自然に元の大きさに戻ろうとする力(受動的な弾性収縮力)」が備わっています。息をたっぷり吸い込んだ直後は、筋肉で押さなくても、肺自体が自然に縮もうとして強い息の圧力が生まれます。むしろこの段階では、「息が一気に噴き出しすぎないよう、吸気筋(息を吸う筋肉)を働かせてブレーキをかける」ことが必要になります。
ところが、歌い進めて肺の空気が減ってくると、自然に戻ろうとする力は弱まります。今度は逆に、呼気筋(お腹の筋肉など)を使って能動的に押し出して圧力を補わなければなりません文献8文献9。つまり、1つのフレーズを歌う間でも、必要な体の使い方は最初と最後で刻一刻と変化しているのです。いつでも同じようにお腹を固めて押し出すだけでは、声門下圧を一定に保つことはできません。

3. 喉を固定しても、息の圧力を変えるだけで音程が動いてしまう
声の高さ(基本周波数:F0)は、声帯が1秒間に何回振動するかで決まります。ピアノの鍵盤と同じで、振動が速いほど高い音になり、遅いほど低い音になります。声帯を引き伸ばしてピッチを上げる筋肉(CT:輪状甲状筋)や、声帯に厚みを持たせる筋肉(TA:甲状披裂筋)が、主にこの振動数をコントロールしています。
しかし、声帯はギターの弦のように硬い木と金属に固定された単純な弦ではありません。自ら血液を通わせ、息の流れによって受動的に揺らされる、非常に柔らかい生体組織です。そのため、喉の筋肉を一切動かさなくても、下から吹き込む息の圧力(声門下圧)が変わるだけで、声帯の揺れ幅や張力が変わり、音程が勝手に動いてしまうという物理的な性質を持っています文献1。
シミュレーション計算:息の圧力を変えると、ピッチはどれくらいズレる?
では、息の圧力は音程にどれほどの影響を与えるのでしょうか? Voickの声帯シミュレーターを使い、「喉の筋肉(CTやTA)の設定を完全に固定したまま、息の圧力(声門下圧)だけを変化させる」計算実験を行いました。

音程のズレを表す単位として、ここでは音楽の現場で広く使われるcent(セント)を使っています。半音(ピアノの白鍵と隣の黒鍵の差)が100 centです。人間の耳は非常に繊細で、訓練された聴き手ならわずか10〜20 cent程度のズレでも「ピッチが狂った」と敏感に気づきます。
図4の計算結果を見てみましょう。例えば設定Aでは、息の圧力を600 Paから1,000 Pa(普通の話し声から、少し声を張った歌声の圧力)へと上げただけで、音程は約144.4 Hzから147.6 Hzへと上昇しました。その変化量は約38 cent。なんと、喉の筋肉を一切動かしていないのに、息を強めただけで半音の約4割も勝手に音が上ずってしまったのです!
サビで感情を込めて「強く歌おう!」と息を吹き込んだ瞬間、意図せず音程がシャープして高くなってしまう現象の正体は、まさにこの「息の圧力による音程の押し上げ効果」にあります。息の圧力が上がると声帯が左右に大きく押し広げられ、組織がピンと強く引き伸ばされることで、ギターの弦を強く引っ張りながら弾いたときのようにピッチが上がってしまうのです。
「息を強めれば必ず高くなる」とも限らない
さらに興味深いことに、息の圧力と音程の関係は、いつでも右肩上がりの綺麗な直線になるわけではありません。声帯の初期の厚みや閉じ方によっては、圧力を上げた瞬間に振動のバランスが変化し、逆にピッチが下がったり、振動がガタガタと乱れたりすることもあります。
実際、喉頭の筋肉を個別に電気刺激した生理学実験(Chhetri & Park 2016)でも、CTの働きが非常に強い高音域など特定の条件では、息の圧力を増やしたときに逆に音程が低下する現象が観察されています文献4。

ここから分かる決定的な事実は、「同じ息の圧力の変化を与えても、そのときの声帯の状態によって、音程の動き方はまったく変わる」ということです。「腹式呼吸で息を強めさえすれば、誰でも思い通りに高音が出る」というような単純な仕組みにはなっていないのです。
音程が不安定なのは地声のせい? TA・CTの働きから考える声区と音程のコントロール声帯の2大筋肉「TA」と「CT」が音の高さや声色をどうコントロールしているのか、3D解剖図とシミュレーションで詳しく解説しています。4. 息の圧力が揺れたとき、音程はどうなる? 喉の「補正」を聴き比べる
人間がロングトーンで声をまっすぐ伸ばしているつもりでも、息の圧力は完全にフラットな直線を描いているわけではありません。心臓の鼓動や、呼吸筋の微細な震えによって、常にわずかな波打ち(揺らぎ)が生じています。
そこで次の実験では、平均784 Paの息に「毎秒2回、振幅±100 Pa」という緩やかな波(揺らぎ)を与えてみました。そして、次の2つの条件で音程がどう変化するかを比較しました(図6)。
- 条件A(喉は何もしない・固定):息の圧力が揺れるまま、喉の筋肉(CT)を一定に保つ。
- 条件B(喉の筋肉CTが息の揺れを打ち消すように微調整):息の圧力が上がった瞬間にCTをわずかに緩め、圧力が下がった瞬間にCTをわずかに張ってバランスを取る。

結果は歴然でした。喉を固定した条件Aでは、息の揺れにつられて音程が約19.9 cent(半音の約5分の1)も上下にウネウネと揺れ動いてしまいました。これは、聴き手がはっきりと「ピッチが定まらずフラフラしている」と感じるレベルのブレです。
一方、息の揺れに合わせて喉の筋肉(CT)をほんのわずかに微調整した条件Bでは、音程の振れ幅は約6.6 centにまで激減しました。6.6 centの変動であれば、人間の耳にはほとんど「ピタッとまっすぐ安定したロングトーン」として聴こえます。
2つの音声を聴き比べてみよう
このシミュレーション結果をもとに、音程の変化だけを純粋に耳で確かめられる比較音源を用意しました。音色や音量はあえて全く同じ条件に揃えてあります。波打つグラフの動きをイメージしながら、ぜひ聴き比べてみてください。
一定の基準音に続いて、息の圧力変動によって音程が約20 cent揺れる様子を可聴化した音。ピッチが波打つように不安定に揺れているのが分かります。
音声Aと同じ息の圧力変動を与えながら、喉の微調整によって音程の揺れを約6.6 centに抑えた音。ピッチの揺れが目立たなくなり、まっすぐ安定して聴こえます。
この聴き比べが教えてくれるのは、「たとえ息の圧力が多少揺らいだとしても、喉の筋肉がしなやかにバランスを取ってくれれば、音程は崩れずに済む」ということです。「息を完璧にフラットに保たなければ歌えない」のではなく、呼吸と喉がチームワークを取ってカバーし合っているのです。
5. 音程をキープしたまま「声の強弱」を変える技術
歌の中で「同じ音程を保ったまま、声をだんだん大きく力強く張り上げたい(クレッシェンド)」、あるいは「声をスッと繊細に小さく落としたい(デクレッシェンド)」という場面は日常茶飯事です。しかし前述の通り、息を強く吹き込めば、音程は勝手に上ずろうとしてしまいます。
では、熟練した歌い手はどうやって音程を1ミリも狂わせずに強弱をつけているのでしょうか? そこで役立つのが、「同じ音程を保つための、息と喉の組み合わせ(補償マップ)」という考え方です。

図7は、息の圧力を600 Paから1,000 Paまで変化させても、まったく同じ音程(約146 Hz)を維持できるCTの調整具合を逆算したグラフです。圧力が強くなるほど、CTの引き伸ばしテンションをほんの少し緩めてあげることで、音程を完全に一定に保てるポイントが必ず見つかります。
補償の仕組みを数式で直感的に理解する
音程の全体変化 = (息の圧力による変化) + (喉の筋肉CTによる変化) ΔF0 ≈ GP × ΔPsub + GCT × ΔaCT
数式で見ると難しそうに見えますが、意味はとてもシンプルです。息の圧力(ΔPsub)が上がると、音程はプラス方向(上)へ引っ張られます。そこで、喉の筋肉(ΔaCT)をマイナス方向(緩める)へ働かせることで、足し引きゼロにして音程のズレ(ΔF0)を打ち消します。
必要な喉の補正量 ΔaCT ≈ −(GP ÷ GCT) × ΔPsub
もちろん、実際の歌手は「CTを何ミリ緩めよう」と頭で計算しながら歌っているわけではありません。耳で自分の声をモニタリングしながら、「息を強く吹き込むときほど、喉を力ませずに少しゆとりを持たせる」という絶妙なバランス感覚を、練習を通じて無意識の運動パターンとして身につけているのです。
6. 科学研究が明かす「プロ歌手の呼吸」のリアル
「プロの歌手は、やっぱり腹式呼吸でお腹だけを使って歌っているのだろうか?」——この長年の疑問に対して、近年の音声医学・呼吸生理学の研究は非常に興味深い事実を次々と明らかにしています。
プロは胸もお腹も、両方しなやかに使っている(Salomoniら 2016)
クラシックの専門歌手7人と未訓練者4人を対象に、歌唱中の胸郭とお腹の動き、そして気流を精密に計測した研究があります(Salomoniら 2016)。その結果、プロの歌手は確かにお腹の筋肉(腹壁)を積極的に活用していましたが、決して「胸を動かさない」わけではありませんでした文献2。
むしろプロ歌手の特徴は、胸郭とお腹を固めず、フレーズや課題に応じて動くタイミングを巧みにずらしながら連動させていた点にありました。発声の直前にお腹の壁をスッと内側に引き込むような準備動作も見られ、息の圧力を瞬時に立ち上げる工夫が観察されています。「胸式はダメで腹式が良い」という単純な白黒思考ではなく、両方を自在に協調させることこそがプロの技術だったのです。
高音から低音へ降りるとき、横隔膜が「一瞬ブレーキ」をかける?(Traserら 2020)
さらに驚くべき発見が、動的MRIを使って歌唱中の歌手の体内をリアルタイムに撮影した研究(Traserら 2020)から報告されています文献3。プロの歌手が高音から低音へと音を一気に飛び降りる(跳躍下降する)瞬間、なんと息を吐いて歌っている最中であるにもかかわらず、横隔膜の後部が一瞬だけ「息を吸う方向(下方)」へとクッと動いたのです。
なぜ息を吐きながら吸う動きをするのでしょうか? 研究者らは、「高音から低音へと急激に音程を落とすとき、声帯にかかる息の圧力がストンと抜け落ちて声が破綻してしまわないよう、横隔膜が一瞬だけ息の流れにブレーキをかけて圧力を微調整したのではないか」と解釈しています。

図の出典:文献3
図8が示すように、歌手たちは音の高さに合わせて声門下圧をダイナミックにコントロールしています。息をただ一定に吐き出すのではなく、音程の跳躍に合わせてブレーキをかけたり踏み込んだりしているのです。
「腹式呼吸のポーズ」だけを真似しても意味がない理由
2024年の研究(Maitiら)では、音程に問題を抱えるプロ歌手に腹式呼吸を中心としたトレーニングを行ったところ、音域の拡大が見られたと報告されています文献5。ただしこの研究でも、姿勢の改善や高音の発声ドリル、ストローを使った発声練習(Lax Vox)などがパッケージとして同時に行われていました。
つまり、「お腹を膨らませるポーズをとったから音程が良くなった」と単純に結論づけることはできません。大切なのはフォームの形そのものではなく、「その呼吸法によって、声帯にとって無理のない適切な声門下圧が作られ、喉とのチームワークが整ったかどうか」なのです。
研究とシミュレーションから見えてきたこと
| よくある疑問 | 科学とシミュレーションが示す答え |
|---|---|
| 息の強さは音程に直接影響する? | 大きく影響する。息の圧力(声門下圧)が上がると、喉を動かさなくても音程が勝手に上ずってしまう。 |
| プロの歌手はお腹だけで呼吸している? | お腹だけでなく胸郭も連動させ、必要に応じて横隔膜でブレーキをかけるなど柔軟に使い分けている。 |
| お腹を意識すれば音程は安定する? | お腹の形だけを意識しても安定しない。息の圧力と喉の筋肉(CTなど)が協調して初めてピッチが保たれる。 |
| 腹式呼吸の決まった型は必須? | 万人に共通する唯一絶対のフォームはない。大切なのは声帯に過不足ない圧力を届けること。 |
7. 練習のヒント:「お腹を力ませる」から「声の結果を聴く」へ
ここまで見てきた通り、音程を安定させるために必要なのは「お腹を固めて無理やり息を押し出すこと」ではありません。今日からの練習で意識したい、実践的な観察ステップを提案します。
- 息を吸うときは、まずお腹の力をスッと「抜く」 息を吸う前にお腹に力が入っていると、横隔膜がスムーズに下りてくれません。まずため息をつくように「ふぅー」と体の力を抜き、下腹が自然に緩んで空気がスーッと入ってくる感覚を味わいましょう。限界までお腹を膨らませる必要はありません。
- 無理のない中音域で、語尾のピッチを耳で確かめる 苦しくない高さの一音を選び、中くらいの音量で3〜4秒ほど「あー」と伸ばします。出だし、伸ばしている途中、そして息が減ってくる語尾で、ピッチが落ちたり揺れたりしていないかを録音やチューナーで確認します。
- 同じ高さをキープしたまま、小さな「強弱」をつけてみる 同じ音程を狙ったまま、声を少しだけ膨らませて強くし、またスッと元の音量に戻します。声を強くした瞬間にピッチが上ずってしまわないよう、「息を強めるときほど、喉の奥をリラックスさせて受け止める」感覚を探ってみましょう。
- お腹で「押し込む」のではなく、「声の抜け感」を基準にする お腹を力づくでグッと押し込むと、喉まで力んで声帯が過剰に締め付けられてしまいます。お腹は「息が一気に出過ぎないよう下から支えるクッション」のように使い、声が楽に響いているかどうかを最優先に観察してください。
スマートフォンアプリやVoickなどの音程表示機能を使うと、「声を張った瞬間にどれくらいピッチが上ずっているか」「語尾でどのタイミングから下がり始めるか」を視覚的に客観視できます。目と耳の両方を使って、自分の息と喉のバランスをじっくり観察してみてください。
ロングトーンとは? 目安の長さと練習法、カラオケでの出し方を解説一定の声を安定して長く伸ばすための身体の使い方と、音程の揺れを防ぐ練習ステップを解説しています。この記事のまとめ
- 声門下圧は音程を直接動かす: 声帯の張りを変えなくても、息の圧力が高まるだけで音程は勝手に上ずってしまう。サビで音が上ずる大きな原因の1つ。
- 量・流れ・圧力は別物: お腹の見た目の動きや息の吐出量と、声帯の下にかかる圧力はイコールではない。風船のように「出口の開き具合」との関係で決まる。
- プロは「息と喉のチームワーク」でピッチを保つ: 息の圧力が多少揺らいでも、喉の筋肉(CTなど)が瞬時に補正をかけることで、安定した音程が生み出される。
- お腹を固めるより、声の結果を聴く: 決まった腹式フォームを義務のように守るのではなく、息の強弱によってピッチがどう動いているかを耳で観察し、しなやかな呼吸と喉の協調を目指そう。
計算方法と、結果を読める範囲
本記事で提示した数値グラフおよび可聴化音声は、Voick Voice Simulatorの三質量body-coverモデルを用いて計算したものです。声帯の一側をボディ1つ・カバー2つの質量とばね機構でモデル化し、神経筋入力から形状と材料パラメータを決定して自励振動を計算します。基礎理論および制御規則はStory & Titze(1995)、Titze & Story(2002)の実装に基づいています文献6文献7。
主要な計算条件
| 項目 | 設定条件 |
|---|---|
| 静的な圧力条件 | 200〜1,400 Pa(100 Pa刻み)+ 基準圧784 Pa(約8 cmH₂O)。 |
| 声帯の筋活動入力 | 設定A:CT 0.24/TA 0.24、設定B:CT 0.5/TA 0.24、設定C:CT 0.7/TA 0.3。LCは全条件共通で0.5。 |
| 声門の静止形状 | 上下カバーの静止位置の差を5 µmに固定した条件と、筋入力から既存規則で算出する条件の2通りを比較。 |
| 時間と積分精度 | サンプリング周波数44,100 Hz、4次Runge-Kutta(RK4)法。静的条件は0.8秒計算の後半0.4秒を定常解析。 |
| 動的変動条件 | 設定Aにおいて、平均784 Pa、振幅100 Pa、周波数2 Hzの正弦波状圧力を印加。計算時間3秒のうち1〜3秒区間を解析。 |
本シミュレーションは声帯単体の空気力学的応答を純粋に検証するためのものであり、声道(喉や口の共鳴腔)との音響連成や、胸腹部の力学的フィードバック、神経反射の遅れは含んでいません。したがって、この計算結果は「生体で息の圧力と声帯の振動数がどう連動し得るか」という物理的メカニズムを理解するためのモデル例であり、個々の読者の筋力や発声状態を直接診断・断定するものではありません。
Voick Voice Simulator v1.0:構成・検証・適用範囲Voickが開発する声帯・声道物理シミュレーターの全体構造、物理方程式、検証プロセスの詳細を解説しています。参考文献
[1] Titze IR (1989)
Titze IR (1989). On the relation between subglottal pressure and fundamental frequency in phonation. Journal of the Acoustical Society of America, 85(2), 901–906.
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Traser L, et al. (2020). Respiratory kinematics and the regulation of subglottic pressure for phonation of pitch jumps – a dynamic MRI study. PLOS ONE, 15(12), e0244539.
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Chhetri DK, Park SJ (2016). Interactions of Subglottal Pressure and Neuromuscular Activation on Fundamental Frequency and Intensity. Laryngoscope, 126(5), 1123–1130.
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Maiti AB, et al. (2024). Effects of the Change in Respiratory Kinematics on the Singing Voice: Re-Visiting the Benefits of Diaphragmatic-Abdominal Breathing in Professional Singers with Problems in Pitch. Ear, Nose & Throat Journal. オンライン先行公開。
[6] Story BH, Titze IR (1995)
Story BH, Titze IR (1995). Voice simulation with a body-cover model of the vocal folds. Journal of the Acoustical Society of America, 97(2), 1249–1260.
[7] Titze IR, Story BH (2002)
Titze IR, Story BH (2002). Rules for controlling low-dimensional vocal fold models with muscle activation. Journal of the Acoustical Society of America, 112(3), 1064–1076.
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[9] Leanderson R, et al. (1987)
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